ヒクタワの道標地蔵について考えてみよう

いつもお立ち寄り下さり、

ありがとうございます。

 


さて、今日は、

十津川村の西熊野街道について、

考えてみようと思います。

暇つぶしに、

ちょっとばかり、お付き合い下さい。

【行仙岳登山口に祀られている道標地蔵】

十津川村の行仙岳の峠、ヒクタワに

立派な道標地蔵が祀られています。

ここで言うところの行仙岳は

大峰縦走路の山ではなく、

十津川村役場の西にそびえる山です。

どうして、この位置に地蔵が祀られたのかを

考えてみようと思います。

 

碑の側面には

「弘化二年 巳7月吉日  右くまのみち」  

碑の右側面には

「右ハ山上下市 左ハかうやさん」  

地蔵の碑には「弘化二年」とあり、

江戸後期の造立です。

側面には「右ハくまのみち」

「右ハ山上下市 左ハかうやさん」

という文字も刻まれています。

明治44年の地形図に、

ここヒクタワの位置に

二重線の道が引かれており、

「左ハ」は今西から三浦峠に繋がる、

いわゆる小辺路だろうと思われます…。

しかし、「くまのみち」は、

どこを指しているのでしょうか?。

明治13年調査の『十津川郷村誌』には、

「小森村字タラタラヨリ登ル

旧道明円ヲ越へ本村ヲ経テ

谷垣内村ニ至ル、

長二十三町、幅五尺、熊野街道ニ属ス…」

という旧熊野街道に関しての記述があります。

本村とは「那知合村」のことで、

小森村明円は、

ここヒクタワの峠から西へ

少し下ったところに存在していた集落です。

hikojima.hatenablog.com

明治初期において、

小森の中心地から明円を経て

那知合に向かう妙圓越えが

西熊野街道の旧道として紹介されています。

明治44年の地形図には、

妙圓越えの道が記載されていませんが、

ヒクタワの道標地蔵は、

西熊野街道

いわゆる「くまのみち」の

主要な分岐点として、

造立されたものと思われます。


ちなみに小森からヒクタワに

向かっているルートとは

別に樫原方面にも二重線が引かれています。

こちらは明治12年に新道(明治道)として

完成した西熊野街道で、

那知合へも通じています。

この明治道の完成に伴い、

妙圓越えが、その役目を終え、

ヒクタワの道標地蔵も、

主要分岐点としての役目を

終えてしまったのかも知れません。


さらに妙圓越えの那知合入口には、

天誅組の河内勢の水郡善之祐たち一行が、

一夜を過ごしたとされる重王寺があります。

天誅組の一行が、

小森から上湯川へと逃走を謀った際、

当然ながら明治道が

完成していなかったため、

ここ妙圓越えを利用した

ものと思われます。

奇しくも、天誅組大将の

中山忠光が生まれた年の弘化二年に、

道標地蔵を造立しています。

行仙岳登山の際、

西熊野街道を歩かれる際には、

是非、ここヒクタワの道標地蔵にも

興味をもって頂ければと思います。

最後まで、

お付き合いいただき、

ありがとうございました。