山崎から西熊野街道の道普請

又、また…の

part3の"西熊野街道再生プロジェクト"の活動です。


来週はじめに、急激な寒さに突入するだろう?と

の天気予想ですが、今日は、朝からの雨も止み、

またもやの青空、ついていますね。


思えば、1年前の5月、

はじめて山崎からの西熊野街道に踏み入れたとき

のことが思い浮かびます。

hikojima.hatenablog.com

雨がポツリポツリの中…。

ルートミス、山抜けはあったものの、

順調に池穴茶屋跡を経て中原谷沿いの道へ。

しかし、中原の吊橋を過ぎてすぐに、

大きな山抜けと遭遇…、

その上、雨足も強くなり、

やむなく引き返すことになってしまいました。

しかし歩行としては、

かなり厳しかった道という印象であったように

記憶しています。


さて、今回は山崎から中原に向けての道普請です。

4人の勇者!!が集合、いざ、出発です。

山抜け、道幅の狭まった箇所等を補修しながら、

池穴茶屋跡へ。

あらためて歩いてみると、

土砂で斜めになりつつある道、

倒木・落ち葉の積もっ道、小さな山抜け、

そして谷の崩壊等々…。

という訳で、再生プロジェクの出番、道普請に

黙々と汗を流しました。

"やった感"

十分の一日になりました。

ビフォー・アフターの効果のほど、

是非とも歩いて確かめていただきたいものです。

 

ちなみに、漢学者藤沢南岳は、明治初期、

十津川村を旅し、

紀行文「探奇小録」を表しています。

藤沢南岳が十津川村を旅したのは、

明治19年のことで、

8月3日に川津に宿泊、

4日目の朝、ここ山崎あたりから次の宿泊地、

折立へと向かっており、

現在文に置き換えて書き記してみます。

(原文は漢文)


"喜延に導かれ、川津を出発した。

川に沿って東へ、四キロほど歩くと、

風屋に着いた。流れの激しい瀬、喉のようだ。

喜延が「風屋の滝」と教えてくれた。

土地の住民は、水をせき止め香魚を取るとのことだ。

小さな峰を越え、野尻を過ぎて、山崎に着いた。

ここで、一旦、川と別れて小森に至る。"


喜延とは、更谷喜延氏、

今の十津川村有林のもとをつくった人で、

文武館執事、新十津川村の創立にも尽力し、

十津川村村長を歴任した人物です。

十津川村有林は、

後に十津川中学文武館をたてる資金としても

つかわれています。

藤沢南岳が十津川村を旅したときには、

更谷喜延氏が案内したようです。

当時の西熊野街道の様子を読み取ることが

出来ませんが、

かつての西熊野街道ルートを知る中で、

かつての十津川村の歴史に思いを馳せる

きっかけになれば嬉しいです。

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GPS軌跡】

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GPS軌跡】

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【作業風景】

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