那知合からヒクタワ・妙圓尼墓へ。妙圓集落を訪ねて

「一度あることは二度ある」、

そして「三度目」の今日、雨から解放されて、

今年最初の

西熊野街道再生プロジェクト例会が

実現しました(part7)。

西熊野街道再生プロジェクトのメンバー、

総勢10名での古道探索です。

今回のコースは、私自身としては、2度目。

とはいえ、前回歩いたときに比べて、

かなり古道状態が悪くなっているようにも…。

十津川村那知合をスタート、

まずは明治道を登り堀割へ。

その後、

明治道が造られる前まで、

小森から那知合に越える主なルートであった

妙圓集落を目指します。

かつての要衝の地、ヒクタワから西へ、

わずかな踏み跡を縫って下ると、

支尾根の妙圓集落の墓碑群の隣に、

明治24年建立の「妙圓の墓」が建っています。

そして、南斜面の僅かな土地に、

かつての妙圓集落らしき跡を

見つけることができます。

ちなみに十津川村は、

明治22年の大水害で大きな被害を受け、

当然、那知合・妙圓集落も、

例外ではなかったと思います。

その上、明治道が造られたことによって、

妙圓集落を通る人が、ほとんどいなくなったことが

十津川村誌』(復刻版)で紹介されています。

とはいえ、妙圓集落は、南北朝時代

護良親王が逃走の途次に、

立ち寄ったところで、

当時、ここに住んでいた、

高貴な方とされる「妙圓尼」が

護良親王に橡粥をふるまわれことが

『十津川郷村誌』に記されています。


「皇子此地ニ休息ス、名ヲ沖ノロト呼、民人来テ云、此ノ地ヨリ西エ指スコト僅二十町ニ不過、明円ト云ル本村ノ支在アリ、近来都ヨリ御皇族ノ御方トミウケ奉ル女一人落来リ、西ノ岡ト云ル処ニ 柴葉ノ家居ヲ作リ、僧尼トナリ御隠レ居シモノアリト告ケ、皇子御不思ト被召行処ニ民家アリ、尋テ屡全否ヲ語リナハ、不思皇子ノ御叔母子ナリ(名ハ不詳)、其時稗ノ粥ヲ皇子ニ捧ケタリト云」

…と。

妙圓集落の大きな屋敷跡で、

ひとまず、昼食。

大塔宮が活躍していた頃から、

10世紀余りが経った明治時代、

妙圓という集落にもたらされた

大塔宮の伝承を、

形に残そうとした妙圓集落の

村民たちの思い…、

『妙圓尼の墓』として

今に伝えているように思いました。

 

さて、ここからが、

僅かな踏み跡をたよりながらの

急下降のデンジャラスなルート。

しかし、こんな場所にと思われるところに、

屋敷跡、

そして水田らしき跡、

きっちりと積み重ねられた

石積み跡等々、

先人たちの苦労の跡が思い浮かぶようでした。

 

【コースタイム】
那知合(9:15)~(9:30)加茂神社~(10:50)堀割(10:55)~(11:11)大師堂~(11:15)ヒクタワ(11:30)~(11:45)妙圓尼の墓~(11:50)妙圓集落跡(12:40)~(14:10)比丘尼淵~(14:50)寺谷出会~(15:25)重王寺跡~(16:00)那知合

 

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GPS軌跡】

f:id:hikojima:20220417171723j:plain【ルート図】

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賀茂神社

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賀茂神社の隣に祀られている山の神】

f:id:hikojima:20220417171740j:plain明治12年に造られたとされる明治道(向井峯道)】

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【明治道(向井峯道)途中にあった椎茸栽培跡】

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明治12年に造られたとされる明治道(向井峯道)】

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明治12年に造られたとされる明治道の堀割】

正面が小森方面

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【大師堂跡】

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【ヒクタワの地蔵】

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【妙圓集落跡】

f:id:hikojima:20220417171817j:plain【妙圓集落の尾根道】

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【妙圓尼の墓】

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比丘尼淵】

昔、妙圓集落に住んでいた妙圓尼が大塔宮に粟粥を差し上げたということが「十津川郷村誌」(復刻版)に記載があります。妙圓尼は、その後、ここ小森の淵に飛び込んで死んだという伝承が残っています。妙圓尼が飛び込んだ淵が、ここ比丘尼淵だとされています。林宏著「十津川郷採訪録」より

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【寺谷出合付近】

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【寺谷出合】

右手が明円谷、左が寺谷

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【重王寺跡碑】

明治4年廃寺

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