那知合の西熊野街道を周回

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またまた十津川村の古道歩きです。

Mさんの紹介で、那知合周辺の西熊野街道

Uさんに案内していただきました。


那知合集落をスタート、明治12年に造られたと

される明治道(向井峯道)を登り、大師堂跡を

経てヒクタワへ。

その後、妙圓越えの西熊野街道から

妙圓集落跡経由で那知合まで戻ってきました。


"午後からの雨"という

天気予報にもかかわらず、雨に合うことなく、

何ともラッキーな一日でした。

皆さん、ありがとうございました。

 

大師堂跡は、かつて弘法大師像を

祀っていたところで、集落の喪失等に伴い、

大師像は、秋葉の社に移されているようです。


また、妙圓は、行仙岳南面の僅かな平坦地に、

昭和初期頃まで存在していた集落で、

明治二十二年の十津川村大水害には、相当、

大きな被害を受けています。

ここ妙圓集落は、後醍醐天皇の皇子、

大塔宮こと護良親王

(もりよししんのう・もりながしんのう)

ゆかりの地としても知られています。

 

十津川村は、南北朝時代護良親王が、

熊野の勢力を頼みとし、

隠れ住んでところです。

そして、ここ妙圓では、護良親王

尼に出会い、

橡粥をふるまわれとたされています。

古道途中にある妙圓集落の墓碑群の

ひとつ「妙圓の墓」にも立ち寄ってきました。

 

『十津川郷村誌』には、西熊野街道

「明円越え」、そして護良親王

「妙圓尼」との出会いについて、

次のように記載されています。


「往古ヨリ西京大阪五條ヨリ紀州熊野ニ亙ルノ線路タリシガ、明治十二年新道開鑿(かいさく)以還ヲ小森村字タラタラヨリ左ニ折レテ、本村ノ東方向井峯ヲ経テ下切及ビ谷垣内村ヘ至リテ、旅人ノ通スルヲ以テ、現今本在ニアリテ、往復ノ人民殆ンド稀ナリ…」

「皇子此地ニ休息ス、名ヲ沖ノロト呼、民人来テ云、此ノ地ヨリ西エ指スコト僅二十町ニ不過、明円ト云ル本村ノ支在アリ、近来都ヨリ御皇族ノ御方トミウケ奉ル女一人落来リ、西ノ岡ト云ル処ニ 柴葉ノ家居ヲ作リ、僧尼トナリ御隠レ居シモノアリト告ケ、皇子御不思ト被召行処ニ民家アリ、尋テ屡全否ヲ語リナハ、不思皇子ノ御叔母子ナリ(名ハ不詳)、其時稗ノ粥ヲ皇子ニ捧ケタリト云」

と…。

Uさんの話しを歩きながら、、

古道を歩いていると、

溢れるように出てくる

情報量の多さと奥深さに、

まずもって驚かされます。

平家・大塔宮をはじめ、

新十津川村、梅田雲浜等々…

まだまだ聞きたいとことばかり…、

興味は尽きません。

GPS軌跡】

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【古道ルート】

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【加茂神社】

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【堀割】

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【西熊野街道 大師堂へ】

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【大師堂跡】

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【ヒクタワの地蔵尊

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【妙圓集落跡の墓石群】

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【妙圓尼の墓】

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【妙圓集落跡】

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【水田跡】

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比丘尼淵】

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【明円谷と寺谷の出会い】

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【重王寺(十王寺)跡】

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【コースタイム】
那知合(8:25)~(8:35)加茂神社~(9:55)堀割~(10:17)大師堂~(10:25)ヒクタワ~(10:30)妙圓越え分岐~(10:50)妙圓集落跡(11:15)~(12:20)比丘尼淵~(13:30)寺谷出会~(14:50)那知合