『上湯川郷土誌(上湯川小学校編)』について

先日、『奈良県名勝志(十津川村抜粋)』

十津川村村誌』二誌についての滝目録を

掲載しました。

しかし、もう一誌、忘れてはいけない文献が

ありましたので、

ここで抜粋の上、紹介しておきたいと思います。


それは、昭和12年発行の

『上湯川郷土誌(上湯川小学校編)』です。


十津川村上湯川についての歴史、自然、

旧跡などが詳細に記載されています。

その中に「川のこと」「滝のこと」と題した

項目があり、滝についての記述があります。

観音滝[2]猫又滝[3]おさよ滝[8]については、

以前、このブログでも取り上げました。

 

ちなみに、『十津川村村誌』の[上湯川村]の滝項では、

"萬堂滝"と"一ノ滝"の2滝でしたが、

『上湯川郷土誌』には、

実に11滝が詳細に掲載されています。

萬堂滝は、昭文社山と高原地図シリーズの

『奥高野』にも位置が示されています。

 

以下、『上湯川郷土誌(上湯川小学校編)』からの抜粋

算数字の番号は、便宜上、つけています。

 

・「滝のこと」

[1]引滝 

八重佐川の上流にある滝で、

引牛の伝説にからむ滝である。約三丈余。
[2]観音滝 

峯地谷にあり、

此滝の近くに稲荷神社鎮座まします。
[3]猫又滝

大井谷奥にあり、蓋をたたへた様な

深淵の両側には樹木が茂り、

昼でもおそろしいやうな滝である。

[4]幡動滝(番堂滝)

北股谷引牛たわの下にある滝で、

高さ約四丈余ある。

※この滝は、後に位置が違っていることが判明。下のリンクで確認下さい

hikojima.hatenablog.com

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[5]八王滝(ハオー滝)

果無川にある滝で、高さが約七丈ある。

 

・「川のこと」
1.大井谷 

大井谷在所奥、牛廻の峯から流れ出る谷川で、

此谷に[3]猫又滝、[6]平内滝・[7]鑵子滝などがある。


2.入谷 

入谷奥の高所から流れ出ている谷で、[8]おさよ滝がある。

 

3.梅垣内谷 

梅垣内在所の下を流れる谷で、

この谷に[9]雨どまりの滝・[10]七郎二郎滝がある。


4.市原谷 

果無山脈中から流れ出る谷で、[11]際目滝がある。

 

三密を避けて、まったりと高尾山へ。

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【シライトソウ】

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三密でなく、府県境を跨がず…

ということであれば…、そろそろ動き出しても…。

ということで田辺市の高尾山へ。

和歌山県に限り、三密になりそうな山を探すのが、

困難といったところでしょう。


さて、高尾山山麓の千光寺は、和気清麻呂公が

愛育していた鷹の死の弔いのために

高尾山中腹に建立したのが始まりと

伝えられています。


また、ここ高尾山は、田辺市の小中学校校歌の

多くに採用されており、

田辺市のシンボル的な山としても

親しまれています。

鷹尾、高雄、高尾…、漢字はまちまち…、

面白いですね。

ちなみに、千光寺の山号は「高尾山」ではなく

「鷹尾山」です。


ということで、自宅で、ナビを奇絶峡に設定。

日頃、ナビは使用しませんが、

この日に限って…。

これが、そもそもの大失態。

通行止めの案内で迂回路として指定されたのが、

クルマ一台がようやく通れるギリギリの道、

いやいや、久しぶりの山歩きに痛い洗礼を

受けてしまいました!!。

(のちに分かったのですが、既に奇絶峡手前の

通行止めは解除されていました)


奇絶峡は、まさに新緑のまっただ中。

日差しは暑いものの、一歩、木陰に入ると、

爽やかな風が通り抜けてくれます。

忘れかけていた気持ちの良い5月の風です。


奇絶峡の入口近くで、

今から秋津川経由で高尾山に登るのだという

35年ぶりの友人Hさんと出会いました。

相変わらず、元気いっぱいの方です。


私は、ここ(奇絶峡)から高尾山を目指します。

しかし、久しぶりの山歩きということで、

体がなかなか思うように動きません。

どっしりとした山容の高尾山ですが、

意外と裾野あたりは急斜面で、

分かり切ってはいましたが…、

しばし、閉口です。

"山頂まで1000メートル"、

"山頂まで500メートル"、

"山頂まで100メートル"の看板、

ありがたいような、ありがたくないような…、

まぁ…、ありがたいのでしょうね。


ようやく高尾山山頂を経て東の展望台へ。

開放感たっぷりの展望台は、

いつもにも増して爽快に感じました。

コロナが恨めしいです。

そして、何と言っても、山の空気は新鮮でした。


山頂で出会った御坊と田辺から来たという

女性3人組のパーティに

写真撮影を快諾していただき、しばし談笑。

久しぶりの山歩きを堪能しました。

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【3D-GPS軌跡】

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GPS軌跡】

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【奇絶峡】

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【赤城の滝(不動滝)】

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【高尾山登山道】

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【磨崖三尊の大石仏】

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【頂上までの看板】

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【高尾山山頂展望台】

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【山頂からの眺望、田辺湾・白浜方面を望む】

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【東の展望台から槇山】

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【仲良し3人の女性パーティ】

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【秋津川への登山道】

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【コースタイム】
奇絶峡・滝見橋(10:25)~(10:30)赤城の滝~(10:35)磨崖三尊大石仏~(11:40)高尾山~(11:45)高尾山東の展望台(12:20)~(12:30)秋津川分岐~(13:25)旧国道~(13:45)奇絶峡

"十津川村の滝"について

一年間を通して、絶好の山登り日和・

撮影日和なのですが……。

新型コロナの影響で、山歩き、写真撮りに

遠出ができません。


もちろん

ここ和歌山県から奈良県十津川村へは…。

ということで、

今、気になっていた文献の読み直しをしている

ところです。

しばしば登場する奈良県名勝志』

十津川村村誌』の二誌です。

暇つぶしを兼ねて、それぞれの文献から

十津川村内の"滝"を抜粋してみました。

明治24年発行の『奈良県名勝志』と

明治16年調査の『十津川村村誌』、

いずれも明治初期頃の文献ということで、

滝名称については、共通するところが多い

ようです。

しかし、滝の高さ、幅(一部に特徴)といった内容が

記されていますが、ピンポイントでの場所の特定が

難しいというのが共通しています。

現在の地形図に置き換えるすべを持たないのが

残念ですが…。

もちろん、滝呼称が現在使われている滝名と

合致する滝もありますが、そのほとんどが、

違っていたり?、変化していたり…です。


とは言いながら、分かっている滝もありますね。

ちなみに、『十津川村村誌』小井村の項に

記載の"戎方瀑"は、以前、このブログでも

紹介しました。

また内原村の"笹瀑"は、

日本の滝百選のひとつ"笹の滝"です。

1000メートル級の山々に囲まれた十津川村ということで、

素晴らしい滝があちこちに…。


自粛が解除された折には、聞き取り等で、

もう少し詳細に掘り下げてみたい…

と思っていますが…。

"十津川村の滝"について、このほか、

何らかの情報をお持ちの方がおられましたら、

メッセージ等、いただけると嬉しいです。

[笹の滝]2018.8.7撮影 

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[戎方滝(雄滝)]2019.5.4撮影

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■『奈良県名勝志』に掲載されている十津川村の滝(25滝)
[※便宜上、滝名に番号を振っています]

[北津川村大字杉清]
1.中西瀑 
[北津川村大字長殿]
2.長名瀑
[北津川村大字旭]
3.地獄瀑

4.極楽瀑

5.出合瀑

6.不動瀑 
[十津川花園村野尻]
7.風屋瀑 
[十津川花園村大字滝川]
8.山瀑  
[十津川花園村大字内原]
9.笹瀑  
10.三重瀑 
[中十津川村大字小原]
11.柿瀑  
[中十津川村大字大野]
12.弁財天瀑 
13.白倉滝  
[東十津川村大字高瀧]
14.高滝 
[東十津川村大字折立]
15.臂リ滝
[南十津川村大字込ノ上]
16.夫婦瀑  
17.紅葉瀑  
[南十津川村大字谷垣内]
18.椋尾瀑 
19.九鬼瀑  
[南十津川村大字桑畑]
20.境目瀑  
21.紅葉瀑 
[南十津川村大字七色]
22.十二瀑
[西十津川村大字出谷]
23.三浦大瀑 
24.虫野瀑  
[西十津川村大字重里]
25.飢生瀑  


■『十津川郷村誌』に掲載されている十津川村の滝(73滝)
[※便宜上、滝名に番号を振っています]
[長殿村]
1.石之門滝
2.長名滝
3.上イゾ滝
4.下イゾ滝
[旭村]
5.出合滝
6.地獄滝
7.極楽滝
8.不動滝
[山天村]
9.見越二ツ滝
[杉清村]
10.中西瀑
[風屋村]
11.風屋滝
[滝川村]
12.一ノ山滝
[内原村]
13.夫婦滝 
14.三重滝
15.笹ノ滝
16.金輪滝
[野尻村]
17.風屋滝
[武蔵村]
18.不動滝
19.三重ノ滝
[湯之原村]
20.栃谷瀑
21.三重瀑
[小原村]
22.小森谷瀑
23.柿ノ瀑
[小森村]
24.蛇羅ノ栃ノ瀑
25.小熊谷瀑
26.行者瀑
[小井村]
27.戎方瀑
28.銚子滝
[小川村]
29.大滝
[高滝村]
30.清納滝
31.洞滝
32.高滝
[大野村]
33.ベザイ天瀑
34.不動滝
35.白倉滝
[谷垣内村]
36.九鬼滝
37.椋尾瀑
38.庄藏滝
39.水鏡滝
[山手村]
40.大瀑
41.女夫瀑
42.牛鬼瀑
[猿飼村]
43.小井渓ノ瀑
[折立村]
44.臂リ滝
45.夫婦滝
46.滝ノ脇
[山手谷村]
47.腹巻ヶ滝
[込之上村]
48.僧滝
49.不動滝
50.夫婦滝
51.紅葉滝
[桑畑村]
52.境目瀑 
53.紅葉瀑
[七色村]
54.十二ノ滝
[東中村]
55.宮ノ滝
[下葛川村]
56.二ノ滝
[神山村]
57.鏡滝
[玉置川村]
58.大滝
59.上牛鬼滝
60.下牛鬼滝
61.上大滝
62.サデヤ滝
63.二ノ滝
[重里村]
64.飢生滝
65.金剛滝
[出谷村]
66.赤滝
67.シャクレ滝
68.三浦大滝
69.虫野滝
70.曽賀滝
71.水タリ滝
[上湯川村]
72.萬堂滝
73.一ノ滝

 

護良親王が走って逃げたという"王走嶺"

いつもお立ち寄り下さり、ありがとうございます。

暇つぶしに、読んで見て下さい。

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今日は、前々回(2020.4.12)に紹介しました

"囁山"西隣の王走嶺について、

考えてみようと思います。


王走嶺は、昭和7年発行の西田正俊氏の著書

『十津川郷』には、

「王走山玉置山の東北にあり。

宮玉置の賊難を避けさせられたる所なり」。

また明治24年発行の『奈良県名勝志』の囁山の項に、


「(略)其西ニ一嶺アリ王走ト呼フ(後略)」、


さらに、明治16年調『十津川郷村誌』

復刻版の高滝村の項に、

「此山(善山)ハ護良親王ノ囁尾山ヨリ王走ヲ経テ 

此ニ遁レテ」、

折立村の項に、

「此ノ嶺ハ 本村ノ北ニ当リテ 

東囁山ニ連リタル山ナリ…(略)」と記述されています。

 

1331年、護良親王一行が紀州切目から逃走を謀り、

十津川に潜伏。

その頃、幕府方である玉置の庄司盛高は、

必死になって護良親王たちを見つけ出そうとします。

護良親王の命を受けた片岡八郎と矢田彦七のふたりは、

庄司盛高のところへ行き、説得を試みます。

ところが、護良親王を捕らえるため、

戦の準備をしていることを知った片岡八郎

「もうこれまで」と思い、熊野別当の軍勢に、

ひとり立ち向かいます。

しかし当然一人では食い止めることができず、

はかなくも横嶺で戦死してしまいます。

後年、横嶺は、八郎の忠義な心をしのび、

花を折って供えたところから折華塚、

後に花折塚と呼ばれるようになりました。


一方、矢田八郎は、この状況を護良親王

知らせたことにより、護良親王一行は、

「囁山」「王走嶺」「善山」を経て芦迺瀬川を渡り、

小原集落あたりまで無事逃走することができました。

 

護良親王が侍臣に「敵はいかがしたか」と

耳元に囁かれたことから「囁山(ささやきやま)」、

囁山をあとに急ぎ、走って逃げたということで、

「王走嶺」、そして、ようやく敵から逃れた大塔宮が、

休憩した山が「実に良い山」と言われたことが

「善山」というのが、

護良親王一行逃走の一連のあらすじです。

しかし囁山から善山までは、直線距離で、1.5km足らず、

「王走嶺」は、

支稜線の逃走途中の一ピークにすぎません。

そのため、"山"ではなく王走嶺という

ことなのでしょう。

護良親王一行の逃走ルートを地図で追いながら、

かつての歴史ロマンに思いを馳せて見て下さい。

そしてコロナウイルスが収束した後には、

是非とも、護良親王一行の逃走ルートに

足を運んで見ては如何でしょうか

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大塔宮(護良親王)ゆかりの"善山"について

全国に緊急事態宣言が拡大され、不要不急の

外出自粛…人との接触機会の8割の削減と…、

何かと気持ちが沈みがちになってしまいますが…。

ここでは、ちょっとばかりの頭の体操と

暇つぶしに読んでみて下さい。

 

今回は、前回4月12日に、取り上げました

"囁山(卯月山)"の西隣に

位置する

"善山(斧[よき]山)"についてです。

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hikojima.hatenablog.com


明治24年発行の『奈良県名勝志』に、

"善山"は、


「…(略)囁山ヨリ王走嶺ヲ過キテ此山ニ

憩ハセル四方ヲ眺メ玉ヒテ曰ク 

真ニ善キ山ナリト(後略)」と書かれています。


また、明治16年調『十津川郷村誌』復刻版の

高滝村の項には、

「囁尾山ヨリ王走ヲ経テ 此ニ遁レテ」

紹介されています。


さらに、西田正俊氏の著書『十津川郷』

(昭和7年発行)には、

「王置山の西北端に在り。

宮玉置の賊難を遁れて御休息の時、

これは善き山なりと仰せられしより、

名づけられたり」と、

護良親王(大塔宮)ゆかりの山として、

"善山"が紹介されています。

しかしながら、これら何れの書籍にも、

"斧山"という文字の山が存在しません。


護良親王一行が熊野別当の軍勢から逃走した際、

護良親王が侍臣に「敵はいかがしたか」と

耳元に囁かれたことから「囁山(ささやきやま)」。

そして、ようやく敵から逃れた大塔宮が、

休憩した山が善山で、

四方を眺めて「実に良い山」と

言われたとされています。


善山(よきやま)が、いつの頃に「斧(よき)山」と

呼ばれるようになったのでしょうか。

斧(おの)は"広辞苑に"よると

「木を伐り、または割るのに用いる道具。

楔形(くさびがた)の堅牢な鉄の刃に堅い木の柄を

つけたもの。よき。狭刃(せば)」だそうです。

確かに、この善山は、細尾根の先端の

切り立ったピークです。

こうした斧を思わせる山容が「斧=ヨキ」と

呼ばれるなったのでしょうか?。

何れにしても、「善山」は、

現在の十津川村図をはじめ、多くの地形図で、

斧という漢字に「よき」を充てて、

「斧(よき)山」と呼ばせています。


 "囁山"のブログの時にも書きましたように、


十津川村の明治時代というのは、いろいろと

変化めまぐるしい時代でした。

そのため、村民の人々の記憶から、

"囁山"、"善山"が消え去ってしまったのでしょうか…。

しかし西田正俊氏の著書『十津川郷』は昭和7年

発行されています。

不可思議ですが…、現時点ではこれ以上は分かりません。

読者の方で、ご存じの方がおられましたら、

メッセージ等頂けると嬉しいです。

そのため、まずは2020年版「山と高原地図シリーズ」

高野山熊野古道』において、"囁山"とともに、

"善山"も復活させました。

今後、"斧山"の原点が"善山"ということを

知っていただければ嬉しいです。

"善山"が護良親王ゆかりの山として、

語り伝えていただきたいと思っています。

そして、次回は、囁山と善山の中間に位置する

"王走嶺"について、焦点を当てて見ようと思っています。

最後まで、読んで頂き、ありがとうございます。

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大塔宮(護良親王)ゆかりの"囁山"について

いつも当ブログへ、
お立ち寄り下さり、
ありがとうございます。
本ブログでは思いつくままに…ただただ、
山への思いを書き綴っています。

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しかし、このところの新型コロナウイルス

の感染拡大…そして、4月に入ってからは、

都道府県に「緊急事態宣言」が発出され、

7都府県への往来についての自粛要請…、

その上、今日は、

予定していた二上山ハイキング例会の中止という

ことで、何かとストレスが溜まってしまいがちです。


皆さんは、どうお過ごしですか??

 

そこで、今日は、不要不急の

外出自粛要請の中で、机上でできること、

少し気になっている山への思い、事柄について、

少し書き記してみよう思っています。

 

以前、当ブログで取り上げましたが、

大塔宮ゆかりの"囁山"が今日の気になる山です。


"囁(ささやき)山"と言っても、ご存じの方は、

おそらく皆無に等しいのではないでしょうか。

"囁山"は、大峰山脈の玉置山の北に位置する山で、

現状、多くの地形図には"卯月山"と記載されている山です。


明治24年発行の『奈良県名勝志』に、"囁山"は、

「往昔護良親王紀州熊野ヨリ通御ノ際、

横嶺ニ於テ賊徒来迫リ将ニ王ヲ捕ヘントス時ニ、

片岡八郎之ヲ防戦ス 

王其間ヲ得テ此山ニ遁ル、

八郎遂ニ死ス 王侍臣ニ囁テ曰ク 

賊ノ様子如何ント

因テ此構アリ又其西ニ

一嶺アリ王走ト呼フ 

王亦此嶺ヲ馳□セラルニ

因テ名ツクト云」と書き記されています。


また、明治16年調『十津川郷村誌』復刻版の

「折立村」の項には、

「東北三分ハ同郡高滝村ニ属シ、西南七分ハ

本村ニ属ス、山脈ハ東南玉置峯(前ニ記ス)

ヨリ連リ…(中略)」とあり、

同「高滝村」の項には、囁尾山として、


「此ノ山ハ 本村ノ南ニアリテ登ルコト 

凡ソ二十町、南ハ折立村ニ属シ、

北ハ本村ニ属ス、

之ニ登ルニ現路ナシ、

此ノ山ハ 

昔シ護良親王ノ熊野ヨリ入リ 

御通路ノ節、字横嶺ト云フ所ニテ

不図モ賊来リ逼リテ捕リ奉ラント、

親王コノ虎ロヲ遁レテ 

コノ山ニ落チ給ヒテ、

王敵ノ如何ヲ見ヨト 

侍臣ニ御囁キナサレシナリト、

之ニヨツテ 

囁キ山トハ云伝フルナリト云」と、

護良親王ゆかりの山として、紹介されています。

しかし、残念ながら、現在、十津川村村図をはじめ、

多くの地形図からは

「囁(尾)山」の山名が消え去っています。


十津川村の明治時代というのは、

何かと変化めまぐるしい時代でした。


明治22年8月の十津川村を襲った未曾有の大水害、

そして北海道への移住、


明治23年十津川村の合併…等々、

村民の人々の記憶から、大塔宮ゆかりの"囁山"が

消え去ってしまったのでしょうか…。

そうであれば、非常に残念なことです。

そこで、恐縮ながら、

2020年版「山と高原地図シリーズ」の

高野山熊野古道』の地形図において、

大塔宮ゆかりの山として、"囁山"を復活させました。

今後、"囁山"への登山者が増えることを願うと共に、

"囁山"として、

認知していただけることを願っています。


大塔宮について、このほかに、

何らかの情報をお持ちの方がおられましたら、

メッセージ等、いただけると嬉しいです。

【囁山の位置図】

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【2020年版山と高原地図高野山熊野古道』より】

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小森からの西熊野街道を歩く

また、また

「西熊野街道」の古道を歩いてきました。

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西熊野街道は、奈良県五條市十津川村

南北に結ぶ、かつての幹線古道で、

明治初期、漢学者の藤沢南岳が熊野への

旅に際し、西熊野街道を歩います。

その時の紀行文「探奇小録」には、

小森周辺の状況を

「嶺ヲ超ヘ野尻ヲ過ギ山崎ニ至ル。

是ニ於テ渓ト別レ中原嶺ヲ過ギ小森ニ至ル」

書き表しています。

 

Mさんの「西熊野街道を歩いてみたい!!」という

"ひとこと"で集まった十津川人に混じって、

今回2度目となる古道歩きに参加してきました。


今日の主な目的は、

小森集落から中原谷を徒渉した後、

道が抜け落ちていると思われるところまでの

古道の探索です。


一方、もうひとつ気になったのが、このところ

の3日間の雨続きで、中原谷の増水状況…です。

どの程度、中原谷が増水するのか、

また徒渉の有無等々…、まずは見てみない…、

といったところだろうか。

 

小森集落をスタートし、旧十津川村役場跡、

モモノキノタワ(小森峠)を経て、

まずは前回引き返すことになった

中原谷の徒渉地点へ。


中原谷の様相は、前回とは大きく変化し、

これ以上の前進は難しく、徒渉することを

残念することに!!。

しかし、これはこれで大きな収穫も…。

薄日の射し込んだ気持ちの良い河原で、

これからの進め方についての昼食タイム。


次回には、もう少し古道ルートを

歩きやすいようにできれば…etcと、

また西熊野街道に興味のある方に

呼びかけながら、

倒木処理や道標設置などをしていこう、

ということで、

皆さんの意見が一致しました。

 

さて、帰路、時間に余裕ができたため、

「七人塚」の探索を行うことに!!。

「七人塚」は、『十津川郷村誌(復刻版)』に、

「嵯峨山(笠松山)とあり

「本村ノ北ニ直頂ニ位ス、

古ヨリ云伝ニ拠リアリ、此塚ハ家臣某等、

皇子行衛ヲ尋ネ探ントシテ来リシモノ、

(中略)笠松山(嵯峨山ト云)

ニ於テ枕ヲ並テ自死ス、

今ニ嵯峨山七人塚アリ」と、

記されているところです。

勝手神社付近の探索をしましたが…、

思わしきところを見つけることができませんでした。

その場所は、未だ不明です。

ご存じの方がおりましたら…。

教えて頂ければ嬉しいです。

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GPS軌跡】

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【旧十津川村役場周辺図】

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【2連橋にかかる滝】
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【中原谷】

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【中原谷に橋が

かかっていたと思われるところ?】

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【中原谷の流れ】

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【2連橋の上部にかかる滝2本】

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以前、置かれていた「旧警察跡」の位置が

間違っていたため、この場所に移動しました。

地図で確かめてください。

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【勝手神社】

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【コースタイム】
小森集落(9:50)-(10:05)旧十津川村役場跡-(10:45)小森峠-(11:50)中原谷徒渉地(13:30)-(14:05)小森峠-(15:05)旧十津川村役場跡-(15:15)勝手神社-(15:55)小森集落