護良親王が走って逃げたという"王走嶺"

いつもお立ち寄り下さり、ありがとうございます。

暇つぶしに、読んで見て下さい。

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今日は、前々回(2020.4.12)に紹介しました

"囁山"西隣の王走嶺について、

考えてみようと思います。


王走嶺は、昭和7年発行の西田正俊氏の著書

『十津川郷』には、

「王走山玉置山の東北にあり。

宮玉置の賊難を避けさせられたる所なり」。

また明治24年発行の『奈良県名勝志』の囁山の項に、


「(略)其西ニ一嶺アリ王走ト呼フ(後略)」、


さらに、明治16年調『十津川郷村誌』

復刻版の高滝村の項に、

「此山(善山)ハ護良親王ノ囁尾山ヨリ王走ヲ経テ 

此ニ遁レテ」、

折立村の項に、

「此ノ嶺ハ 本村ノ北ニ当リテ 

東囁山ニ連リタル山ナリ…(略)」と記述されています。

 

1331年、護良親王一行が紀州切目から逃走を謀り、

十津川に潜伏。

その頃、幕府方である玉置の庄司盛高は、

必死になって護良親王たちを見つけ出そうとします。

護良親王の命を受けた片岡八郎と矢田彦七のふたりは、

庄司盛高のところへ行き、説得を試みます。

ところが、護良親王を捕らえるため、

戦の準備をしていることを知った片岡八郎

「もうこれまで」と思い、熊野別当の軍勢に、

ひとり立ち向かいます。

しかし当然一人では食い止めることができず、

はかなくも横嶺で戦死してしまいます。

後年、横嶺は、八郎の忠義な心をしのび、

花を折って供えたところから折華塚、

後に花折塚と呼ばれるようになりました。


一方、矢田八郎は、この状況を護良親王

知らせたことにより、護良親王一行は、

「囁山」「王走嶺」「善山」を経て芦迺瀬川を渡り、

小原集落あたりまで無事逃走することができました。

 

護良親王が侍臣に「敵はいかがしたか」と

耳元に囁かれたことから「囁山(ささやきやま)」、

囁山をあとに急ぎ、走って逃げたということで、

「王走嶺」、そして、ようやく敵から逃れた大塔宮が、

休憩した山が「実に良い山」と言われたことが

「善山」というのが、

護良親王一行逃走の一連のあらすじです。

しかし囁山から善山までは、直線距離で、1.5km足らず、

「王走嶺」は、

支稜線の逃走途中の一ピークにすぎません。

そのため、"山"ではなく王走嶺という

ことなのでしょう。

護良親王一行の逃走ルートを地図で追いながら、

かつての歴史ロマンに思いを馳せて見て下さい。

そしてコロナウイルスが収束した後には、

是非とも、護良親王一行の逃走ルートに

足を運んで見ては如何でしょうか

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