淡輪城跡から旗立山・俎石山へ

2019年の始まりの山歩きは、"淡輪から旗立山"を

目指します。

…と、その前に、淡輪駅近くにある淡輪城(邸)跡に

立ち寄ります。

城跡は「城の藪」と呼ばれたところで、

土塁の一部が残っているようですが、

私有地なので…入ることができません。

気を取り直し、旗立山へと向かいます。

[GPS軌跡]

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[3D-GPS軌跡]

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別所池横の鉄塔巡視路を経て、配水タンク横から

支尾根に取り付きます。

比較的、良く整備された山道を登っていきます。

立山山頂からは大阪湾・淡路島・関西空港

きれいに見えています。

立山を後に俎石山から大福山・奥辺峠手前の

支尾根から番川経由で、淡輪へと周回。

昨年の台風と思われる倒木が目立ったものの、

大きな木は、チェンソーなどで切り払われ、

歩きやすくなっていました。


さて、ちなみにですが、

少し淡輪について…。

 

太閤秀吉が天下を統一した頃、ここ淡輪を

治めていたのは、

地侍の淡輪家の大和守隆重(徹斎)で、

一人娘の「こよ」は、関白秀次の側室として

寵愛を一身に集め、

「御小督の局(おここのつぼね)」と

呼ばれていました。

しかし太閤秀吉に秀頼が生まれ、関白秀次は、

自分の地位に不安を感じるようになり、

自暴自棄の末に、秀吉から切腹の命が下され、

三条河原にて三人の子と三十余人の愛妾も

斬首されてしまいます。

この時、御小督局も、この悲運からは免れる

ことが出来ませんでした。

これを機に、淡輪家の所領は没収され、

ここ"城の藪"の邸宅も取り壊されてしまいます。

しかしながら悲運は、

ここで終わった訳ではありません。

秀次と御小督の局との間に生まれた女の子は、

密かに助け出され、お菊と呼ばれ、

育てられていました。

20歳となったお菊が、紀伊国の代官に嫁入り

してまもなく、大坂夏の陣が没発、大坂方と

なった夫のため、密使を引き受け、

樫井川の合戦では、夫が討ち死に、

その後、捕らえられたお菊は、紀ノ川の河原で

処刑されてしまいます。

こうした悲運とともに、

江戸時代を迎えることとなります。

[淡輪城跡]

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[宇度墓古墳]

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[高架下の別所池畔から鉄塔点検道へ]

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[正面の山が泉南飯盛山]

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[配水タンク横から支尾根に入ると展望が開けてきます]

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[左端の山が泉南飯盛山]

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[ロープも設置されています]

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[旗立山山頂から関西空港を望む]

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[俎石山展望地から関西空港を望む]

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[大福山山頂から大阪湾を望む]

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[鉄塔の建つ左手の山が大福山]

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[建武地蔵]

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【コースタイム】

淡輪P9:00-9:20淡輪城跡9:25-9:35宇度墓古墳-9:45別所池-10:00配水タンク横-10:40分岐-11:20旗立山11:25-11:50俎石山展望地12:10-12:30大福山12:50-13:20分岐-14:35建武地蔵-15:05淡輪P