大塔宮(護良親王)ゆかりの"善山"について

全国に緊急事態宣言が拡大され、不要不急の

外出自粛…人との接触機会の8割の削減と…、

何かと気持ちが沈みがちになってしまいますが…。

ここでは、ちょっとばかりの頭の体操と

暇つぶしに読んでみて下さい。

 

今回は、前回4月12日に、取り上げました

"囁山(卯月山)"の西隣に

位置する

"善山(斧[よき]山)"についてです。

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hikojima.hatenablog.com


明治24年発行の『奈良県名勝志』に、

"善山"は、


「…(略)囁山ヨリ王走嶺ヲ過キテ此山ニ

憩ハセル四方ヲ眺メ玉ヒテ曰ク 

真ニ善キ山ナリト(後略)」と書かれています。


また、明治16年調『十津川郷村誌』復刻版の

高滝村の項には、

「囁尾山ヨリ王走ヲ経テ 此ニ遁レテ」

紹介されています。


さらに、西田正俊氏の著書『十津川郷』

(昭和7年発行)には、

「王置山の西北端に在り。

宮玉置の賊難を遁れて御休息の時、

これは善き山なりと仰せられしより、

名づけられたり」と、

護良親王(大塔宮)ゆかりの山として、

"善山"が紹介されています。

しかしながら、これら何れの書籍にも、

"斧山"という文字の山が存在しません。


護良親王一行が熊野別当の軍勢から逃走した際、

護良親王が侍臣に「敵はいかがしたか」と

耳元に囁かれたことから「囁山(ささやきやま)」。

そして、ようやく敵から逃れた大塔宮が、

休憩した山が善山で、

四方を眺めて「実に良い山」と

言われたとされています。


善山(よきやま)が、いつの頃に「斧(よき)山」と

呼ばれるようになったのでしょうか。

斧(おの)は"広辞苑に"よると

「木を伐り、または割るのに用いる道具。

楔形(くさびがた)の堅牢な鉄の刃に堅い木の柄を

つけたもの。よき。狭刃(せば)」だそうです。

確かに、この善山は、細尾根の先端の

切り立ったピークです。

こうした斧を思わせる山容が「斧=ヨキ」と

呼ばれるなったのでしょうか?。

何れにしても、「善山」は、

現在の十津川村図をはじめ、多くの地形図で、

斧という漢字に「よき」を充てて、

「斧(よき)山」と呼ばせています。


 "囁山"のブログの時にも書きましたように、


十津川村の明治時代というのは、いろいろと

変化めまぐるしい時代でした。

そのため、村民の人々の記憶から、

"囁山"、"善山"が消え去ってしまったのでしょうか…。

しかし西田正俊氏の著書『十津川郷』は昭和7年

発行されています。

不可思議ですが…、現時点ではこれ以上は分かりません。

読者の方で、ご存じの方がおられましたら、

メッセージ等頂けると嬉しいです。

そのため、まずは2020年版「山と高原地図シリーズ」

高野山熊野古道』において、"囁山"とともに、

"善山"も復活させました。

今後、"斧山"の原点が"善山"ということを

知っていただければ嬉しいです。

"善山"が護良親王ゆかりの山として、

語り伝えていただきたいと思っています。

そして、次回は、囁山と善山の中間に位置する

"王走嶺"について、焦点を当てて見ようと思っています。

最後まで、読んで頂き、ありがとうございます。

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